日々草の唄

死ぬまで生きる日々のようす

ある日の欠片150904

恋愛に限らず、人間関係において、好きな人には、できるだけその人が好きな自分でありたい。
自分が無理がない程度に、やけどね。
その範囲内で、弱音を吐いたり、甘えたりしたい。
つまりは、感情の八つ当たり的な、衝動的な暴走を相手に対してしたくない。 
最終的には自分の足でちゃんと立つから、一瞬肩かして、という心境でしょうか。
まぁ、それも結局は自分のためなんでしょうけどね。 

そして、その好きな人が、自分と会いたくない、自分を必要ないというのが望みならば、自分は縋ることなく受け入れると決めている。
好きな人が自分といてくれて少しでも楽しかったならば、その過去だけでいい。
嫌なことがあったのならば、それをこれ以上増やしたくない。
記憶というか過去は、都合のよいように歪めることもできるだろうけど、放った言葉やとった行動は取り返しききませんから。

傷ついて、痛くて痛くて、不安でたまらなくでも、これからのことは色んな形で代替がきく。
自分が必要とするならば、違う人が違うなりに、もしくは人ではない違う方法で補うことができる。
それをこの1年半、ゆっくりゆっくり身をもって知った。
知ったところで、傷つくことは傷つくし、痛いし、不安になるのだけれどね。
知ったから、前より優しくなれる気がする。人にも、自分にも。 

あと、傷というか穴というか、膿まなければ、無理に背いたり、ふさごうとしなくてよいのでは。 

脱線しちゃうんですけど、「失恋」って、だから「恋を失う」と書くのか…と今しみじみ思いました。
フラれるだけが「失恋」ではないのですね。 

この1ヶ月、自分に猛烈に縋ってきた人がいたので、縋るということについて、失うということについて、ぼんやり考えてしまったわけです★