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日々草の唄

死ぬまで生きる日々のようす

自分の思う「幸せ」

日々草の唄

雑記。
テーマは超個人的な「幸せ」について。

なぜ人は幸せになりたがるのだろうとたまに思っていて、そういえば、けっこう前にも考えたことあったなぁと思ってつらつらと書いてみます。

ある人は自分の生き方を考えながら「そうしていければ、幸せに近づけるような気がする」と言っていて、ある人は自分とは違う生活の様相を眺め「幸せなんだろうか」とつぶやいておりました。

前者は現時点での自分を幸せではないと認識している点が、後者は現時点での自分の幸せを十分に認識している上でそれ以外の在り方の幸せについて想像できてない点が印象的でした。

「幸」も「不幸」も
「喜び」も「悲しみ」も
「快感」も「苦悩」も
どんな感覚も、感情も、100%分かることはできないし、むしろ全く分らないことを前提に寄り添うことが自分の基本姿勢なのです。
しかし、ある程度親しかったりすると、少しは分かり合ってるようなところもあるので、気を許してる際にふと出現した相手の自分との違いが、改めて自分の理解を深めるようになることってありまして。


「幸せ」とは何ぞや。
というと自分は、割と意味もなく「自分って、まぁそこそこ幸せやおなぁと思ってるタイプなんやなぁ~」としみじみと思いました。

「衣食住とかのある程度のライフラインが保障されてさえいれば、ある程度どこにいても幸せなんではなかろうか」とも。

自分の「幸せ」の理由がぼやや~んとしており、「○○だから(があるから)幸せ!」みたいな理由がない分、「○○だから(がないから)不幸!」という事象がおきないのでは?という仮説と、ある時期約1年半ほど、個人スペースがほぼ全くない生活をしていたけれど、何も気にならなかったという実体験から感じたことなんですけどね。

まぁ、何が理由で死ぬかは分らないとして、その死ぬときまで生きる上での不安要素はありますが…。それは、金銭的なことであったり(これは確実に「貧困」の二文字につきるので)、己の健康状態であったりと予測不能なことはありますからね。


**

どうなんでしょう。
今、自分が人生で1番「幸せ」だったろうと思いだすのは2012年~2014年の2年間でしょうか。
でも、あの時、すごく情緒不安定で、大変だったんですけど。
過去は、なんとなくいいように思えてくるものなんですかね。

いや、なんだかんだで、2015年も2016年も幸せだったなぁとか思い出すのかもしれません。
てゆうか、むしろ、2015年と2016年現在まで、既にめちゃ幸せでしたなぁ~といった感覚ですね。
単純…!!

 

幸せなときは、その一瞬一瞬が嬉しくて寂しくなる、ような気がする。
ほろほろと煌めきながら、ゆびの間からこぼれていく。
誰かがいれくれるおかげで、自分には必要以上な幸せを感じるときは特に。

それはその人がいてくれたからで、その人がいなくなったら生じない幸せなのかも知れないけれど、自分は記憶の中で、繰り返し繰り返しその一瞬一瞬をまぶしそうに再生するでしょう。
(現在も、2012年のささいなことや楽しかったことを再生するし、その期間に限らず、気に入ってる記憶はよく再生しているので)
第一、その人がいなくなったからといって、消失感が生じることは確かだけれど、不幸ではないのだから。

きっとそのとき、自分にあるのは、孤独や不安。
ただ、孤独や不安であるからといって、不幸とは思えないのは何故なのだろう。


スイコ

 

◆追記
自分は書いたことを下書きで寝かす期間が長い。
たまたま、この雑記を投稿するにあたって、上記も、表現を書き直した箇所が多々ある。
ただ、最後の問いに対して、現在の答えが出たので、書き加える。

 

出会えて、一緒に過ごせた過去があるだけで、もう幸せなんだろう。

孤独や不安は、自己防衛や自己愛から生じるもので、それはあの幸せの有無とは関係ないものだから。
孤独や不安は、ある意味、人の行動の大きな原動力となるから、それを感じることは決して悪いことばかりではない。

とくに自分のような人間は、ちょっとくらい孤独な方がちょうどいいような気がする。

 

スイコ