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日々草の唄

死ぬまで生きる日々のようす

人形考_日々の欠片160525

99.99999…%、自分が作った人形は50年後、はやければ30年後くらいには消滅するでしょう。
自分が死んだり、持ち主になにかあったり。

自分はそれでいいと思います。
消滅する前に、ある人形がある人に愛され、一緒にその人と時間を過ごすことができれば、素敵だなぁと思いますが。

たぶん、今生きている人間も100年後には誰もいない。
そういったいずれ消える人の記憶の断片に残ることって、すごく贅沢なんじゃないかと、なんだか感じるようになりました。
自分には「同じ時間を生きる」ことへの執着と「同じ時間を生きることはできない」という諦念があり、「一瞬」と「永遠」は等価値だと思っています。

 

3月の展示でも、実際に人形に会ってもらうことの重要さ、実物でしか分からないリアルの情報量の大切さを感じたわけですが、先日ちょうど「見られる厚み」について話題にあがりまして、たしかに多くの人の視線を集めた作品の唯一無二なオーラは、その「モノ」の経験によるものなのかも知れないな…と感じました。
それは、作品に限らず、日用品にも言えると思うのですが、「大切に愛用されているモノ」はやはり、「粗末に扱われているモノ」とはだいぶ雰囲気が違うように思います。


人の形をした「モノ」である人形が、多くの人に見られる経験から得る自信というのが、その人形に現れたらオモシロイ。
たぶんその表れ方も、その人形の性格によって違のうかと思うとなおさらオモシロイです。

ある作家さんが、お迎えしてもらった人形がメンテナンスのために、一時的に作家さんのもとに戻ってきたとき、以前より穏やかな表情になっている気がする…とゆうようなことをツイートされているのも見たことがあります。

個人的には、特定の誰かに想ってもらえるのが、自分が作った人形が得て欲しい環境なので、そのためにも人形を出逢いの場に連れ出すことが自分の義務でもあるとは思っていましたが、それ以外の楽しみが増えました。
今完成している人形たちは、自分が死ぬころにはどんな表情になっているのだろう。

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☝一体目の人形「狐の少年」


話はそれますが、100年後にも、「人形」という文化はあると思うけど、こんな手作業で1体1体作るのはすっごく古いアナログの化石みたいになってるのでは?。
まぁ、手作業で作るのが好きみたいな人種はいると思うので、その層が何してるのかが気になります。

 

スイコ