日々草の唄

死ぬまで生きる日々のようす

寂しさの理由

今作っている、少女人形と少年人形は5月から作り始めている。

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少女人形は、土曜の昼間は屋外で塗装を始める予定。塗装と磨きの繰り返し。
1mm以下の凹凸に一喜一憂する造形の作り込みから、変化が見えやすい塗装作業の移行はギャップがすごくて、クラクラとする。
これから完成までのの作業は、振り返るとき、一瞬だ。

夜には、少年人形の造形仕上げをして、少年人形も連休中には塗装をする。

 

完成に近づくにつれて、寂しさを感じる。

 

人形を「自分」が作っている限り、なにかしら「自分」が投影されているのは免れないけれど、私はもともと、作った人形を自分の子どもとか、自分の分身のようには一切感じていない。


ただ、人形たちは、制作しているその期間の私を誰よりもそばで、じっと見つめ続けて、ずっと私の感情を見透かしている。

 

なんていうか、上手く言えないのだけれど、制作期間のありとあらゆるの全て感情を私は静かにぶつけていて、その人形は、その人形自身と私の意に反して、制作期間の私の情念が閉じ込められている。

 

つまり、私が寂しいのは、この2体の制作期間に閉じ込めた情念と別れるのが寂しいということ。

 

仕上げに伴い、磨く作業が増え、まるで封印するような、祈りや儀式のよう。

 

完成したとき、その人形は、晴れて、私から離れて、己の美を誇示し、己の意志で、私ではない、鑑賞者を見つめる。
それは、私の情念を内包してはいるが、私とは別の意志を持った「個」として存在している。


先日、自分で作った2体目の写真を見てつくづく感じたのは、あの時の私だから、作れたということ。
いまの2体も、「今」しか作れないという顔をしている。
もう2度と、この顔は作れない。